(14) オリジナリティの確立に向かって

その頃、クラシック音楽の勉強をしながらオリジナルの曲を書く努力を続けていました。
日本にいるときに書いた曲はどこかで聞いたことがあるような、オリジナルと言っても僕でしか書けない様な個性的な曲でもなくとにかく作曲する時の心構えがいいかげんで意識が薄いものでした。何とか自分で納得の出来る「これがオレの音楽世界だ」といえるものを書きたくて相変わらず毎日ピアノを探りながら苦しんでいました。

頭の中には、ジャズ、クラシック音楽、日本の音、日本の美しさ、NYで見た沢山の絵画等が渦巻いていましたがどうしても具体的に音となって現れてこない。
東洋を感じる4度、5度の和音やペンタトニックなメロディー等を探っていたある時、4度音程の積み重ねの、ある面白いパターンが浮かんできました。 そのパターンを早速ワイフに聞かせたところ面白いじゃないまだ聞いたことのない世界だ、と言われ勇気が出てよし!このパターンから曲を作ろうと思い「MATSURI」という曲が出来ました。

日本で出した一枚目のリーダーアルバム「FRIENDS」以来NYへ渡ってから 自分のアルバムは作っていなくてCBS SONYの伊藤八十八さんのほうから次のアルバムを作らないかという要請がずっとあったのですが、何を作ったらいいのか自分の中ではっきりせず何年も考えていたわけです。
やっと自分でも納得の出来る「MATSURI」「MORNING PICTURE」と、もう一曲オリジナルの「THE LITTLE LADY」を加えて「MATSURI」というアルバムを完成させました。
後によく共演する事になったDavid Liebman, Tom Harrell, Andy Laverne, Billy Hartが一緒でした。
レコーディング後、家に帰る車の中で何かすがすがしい「やっと自分なりのオリジナル音楽の第一歩を踏み出せたかな。」という気持に初めてなったのを覚えています。

このアルバムが出たのが1979年なのでNYへ渡ってから6年という月日が過ぎていました。
もちろん自分では納得のいかない所は沢山ありましたが胸を張ってこれはアメリカ人の作ったジャズとはちょっと違い日本人の鈴木良雄だから出来た音楽だと言える初めてのオリジナル曲でした。
この曲をきっかけに開き直ったというかクラシック音楽の歴史を学んだ事も視野が広がる大きな助けになり、オリジナルをどんどん書くようになっていきました。
2年後の1981年には僕の盟友、伊藤潔がプロデュースしてくれて、全曲オリジナルの「WINGS」を発表し、ようやく鈴木良雄の世界の夜明けが始まった訳です。

もうこの頃は5~6年間長く一緒にやっていた Bill Hardman & Junior Cook(co-leader)バンドも辞めて「WINGS」で共演したDave Liebman, Tom Harrell, Andy Laverne, Bob Berg, Chuck Loeb等と「Seventh Ave. South」というジャズクラブ(ブレッカー兄弟が経営していたクラブ)などに出演してオリジナル曲を発表する様になっていきました。
Bill と Juniorのバンドは今まで一番長く在籍したバンドでしたがとにかく皆良い人達で特にBillとドラムのLeroy Williamsはスイートで何だかんだと僕を励まし助けてくれました。
このバンドでよくヨーロッパへ行きました。年に1~2回ほど、3週間から長いときは1ヶ月以上、それはもう大変な旅でした。
乗り物は飛行機、電車、車、船、何でもありで、行った国はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、デンマーク、スウェーデン、ベルギー、スイス等本当に過酷な旅ばかりでNYに帰ってくるともう二度と行きたくないと思うのですが、又半年くらいして電話がかかってくるともうその苦しさを忘れてOKって言っちゃうんですよね。まあ、お金も稼がなくてはいけないし、少々な事は我慢しなくては駄目だと思ってやっていました。

Bill, Juniorのバンドを辞めてからは益々稼ぎは少なくなりましたが、ワイフが働いていたので僕はほとんど“ヒモ”の状態で、でもお陰で音楽には没頭できました。“感謝”です。

                            鈴木良雄

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