「追悼 瀬川洸城先輩」
ジャズ研の練習室のドアを始めて開けた時、まず目に飛び込んできたのは、正面でサングラスをかけ、その頃最先端を行っていたアイビールックに身を固めてドラムをたたいていた瀬川先輩でした。 そのとき僕はてっきり誰かプロのミュージシャンが来てドラムをたたいているのかと思いましたし、そばにいて落ち着いて老けた感じの人はクラブ顧問の大学の教授かと思いました。実はその方はベースの名手の佐々木先輩でした。と言う具合に大学と言うのは高校と全然違って大人に見える人が多いな、というのが最初の印象でした。 その日は一応オーディションと言う事で、新入生全員に課題曲の「YESTERDAYS」を演奏させると言う事だったんですが、何人かがもう既にその事を知っていて練習してきたのかメロディーを奏でていました。後に大親友になり僕がアメリカから帰国後、マネージャーをやってくれるようになった瓜坂正臣もテナーサックスで堂々と「YESTERDAYS」を吹いていました。 僕はその時ジャズを聴き始めて半年ちょっと位だったのでこの曲は聞いたことがなく何人かが演奏したメロディを聞き覚えておいて、頭の何小節かをギターで弾き、「これだけです。」ということで終わったのですが、オーディションが終わる寸前にそういえば僕がモダンジャズに興味を持つことになったデーブ・ブルーベックの「TAKE FIVE」と「トルコ風ブルーロンド」の2曲をコピーしていてピアノで弾けるのを思い出して皆の前で弾いたんです。そしたら先輩方々の反応が以外にもすごくて「お前はピアノやれ」と言う事になりました。まあ、その時、楽器は何でも良く、ただ大学に入ったらどこか音楽のサークルに入りたいな、と言うくらいの軽い気持ちしかなかったのでジャズは全く弾けなかったギターは止めてピアノを弾く事にしたという訳です。 さて、このジャズ研時代ですが、一週間に3日、月・水・金・を僕達モダンジャズ研究会が使用し、火・木・土をナレオハワイアンズが使用するという決まりだったんですが、授業には出なくても練習時には必ず行って練習し、そうでない時間は早稲田や新宿にあるジャズ喫茶にいってジャズを一日中聴きまくるという生活パターンがその時始まりました。(雀荘にも良く通っていましたが……) とにかく人生のうち、最高に楽しい幸せな時期のひとつがこの頃でした。青春真っ只中でしたね。 又、夏にはジャズ研の合宿がスキー場のロッジであり、最初に部室で初めて会った先輩の瀬川さんの指揮の下、朝6:00に起床しすぐに山道のマラソンをさせられるというのが日課でした。そしてビリから5番以内になった人はそのあと腕立て伏せ30回やらされるなど、ジャズ研なのにどうして運動部みたいな事やるんだろーとおもっていましたが瀬川さんが恐かったのでみんなただ黙々とやっていました。 そのように真面目で情熱的な瀬川さんはとても優しい人で後輩達の面倒見が良く、度々飲みに連れて行ってくれたりと、可愛がってくれました。 僕と瓜坂が部員一年生が誰でもやらされるバンドボーイ(コンサートやダンスパーティ等の仕事の時楽器運びをやる)をやっていたある日、先輩の大事なテナーサックスを僕がタクシーのトランクに置き忘れてしまいました。その当時何十万もする高価なもので僕は先輩に「チンタラ、チンタラするんじゃねー!」とこっぴどく叱られ、それ以来チンタラ君と呼ばれたりして、その後は増尾が後輩として入ってきてチンさん、と呼び方が変化しアメリカへ渡ってからは Yoshio “Chin” Suzuki とミドルネームになったと言うわけです。ちなみに瀬川さんは部の連絡ノートに「珍鱈君」なんて書いてましたけどね。 その楽器は1ヶ月後に出てきて、瀬川さんは瓜坂と僕を誘ってくれ良かった、良かったと3人で祝杯をあげました。 そしてジャズ研はマネージャーを務めていた瀬川さんの下で初めてサークルとして統制がとれた組織となり、後に大きな足跡を残すクラブへと発展を遂げる事になったのです。 そのジャズ研に対して多大な貢献をされた瀬川さんが先月3月16日に他界されました。 その直後、瀬川さんの故郷である徳島に久し振りに僕のバンド「Bass Talk」を引き連れて4月8日にライブを行ったのですが、僕の来るのを楽しみに待っていてくださったにも関わらず間に合いませんでした。 瀬川さんは大学卒業後、徳島に戻られてからも持ち前のリーダーシップ力を発揮して徳島ヨットクラブを創設し徳島県庁前の「ケンチョピア」というヨット停泊地の保全活動への尽力、阿波踊りヨットレースを国内最大級のレースに育て上げるなど日本のヨット界に大きな足跡を残されました。 まだ早すぎる死に深く追悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。鈴木良雄